欠点を克服しろ、何でも出来るようになれ、という人は多くいます。それを、あなたの為を思ってというスタンスで言ってきますが、本当にそうでしょうか?
そしてそれを真に受けて実行すればどのような弊害があるでしょうか?
今回の記事では、欠点を克服しようとする事の弊害について書いていきます。
欠点を克服しない方がいい理由
欠点は困らない程度に補えればいいと、私たちは考えています。
足りない物をなんとかしなければいけない、ダメな部分を無くさなければいけないという氣持ちは欠乏欲求によるものが多いものです。
例えばワンピースのルフィが海図を読む勉強をすれば、DBの孫悟空が就職活動をすれば、太閤立志伝Ⅴの前田慶次が政務の修行をし続ければ、といったあたりを想像してみてください。
まず時間の無駄ですし、本人の魅力もなくなります。
他にいくらでも磨いたり鍛えるものがあるのに、それがおざなりにもなります。
オールマイティに多くを出来る事を否定しているのではありません。そのような人が欠点を克服しようとすれば、
「何でも適度に出来るのではなく、ほとんどの事が出来なくても何か1つを究めるべきだ」
と、なります。オールマイティを器用貧乏と評価し、それを欠点と考えてしまいます。
これを見ても分かるように、欠点なんて作ればいくらでも出てくるものですし、せっかくの良さを消そうとしているのも理解していただけるのではないでしょうか?
欠点を克服したいと思う理由
人からのアドバイス
子どもの頃に家庭や学校で、何でも出来るようになりましょう。苦手な事には1つ1つ取り組んで克服していきましょう、といった教育を受けたかもしれません。
子どもの頃は、何が出来て何が出来ないかを知る時期なのでこれは仕方がないと思われます。
そして、受験をする時期になれば、自分の得意科目で受験校を選択したりもしていきます。ここからは得意を伸ばす方向性も教育現場に現れてきます。
社会に出て、上司や先輩等で「何でも出来るようになるべきだ」「足りない物を埋めろ」と言ってくる人がいます。会社と言う組織ならばまだ仕方ない部分があるとしても、趣味の世界でも言ってくる人はいませんか?
そのように、人に完璧を求めてくる人は、あなたをコントロールしようとしてはいませんか?
欠点を指摘し罪悪感を植え付ける、完璧にさせる事で便利に利用しようとしていないでしょうか?もしくは人を見て適材適所に配置する能力がないので、便利なオールマイティーを求めていないでしょうか?
人を見れない人は、自分を見れません。
人の長所を認められないのは自分に対してもそうで、幼稚な精神性を持っています。
「自分は完璧に出来る」と豪語する人は、自信がなく、人に注意する事で自意識を保っています。なぜなら、出来る人は出来る事があたりまえなので、わざわざ言おうとも思いません。
そしてその人は偏りなく全てが出来るわけでもないでしょう。まず「何でも出来るようになれ」という考え方自体が偏っているからです。
あなたに「欠点を克服しろ」という人は、上記に当てはまらないか、そうならばその意見の言いなりになるべきかどうかを考えてみてください。
超自我によるもの
人間の心は3つの構造に分かれます。
- 原我(イド/エス):本能や欲求等、人間の自由氣ままにしたい部分
- 自我(エゴ):原我と超自我を調整する部分。自己である強い認識
- 超自我;道徳的で正しい理想を追い求める部分
この3つの内、心に制限をかけているのは超自我です。
超自我は、自分が受けていた教育や、見たり聞いたりした中での自分の理想像などから作られます。
そして多くの人は、何か問題が起きると、超自我の制限を増やす事で問題の解決をしようとします。何か問題が起きるのは自分の欠点のせいなので、克服すれば解決するという発想です。
そうとは限らないという理由が下の記事に書いていますので読んでください。
欠乏欲求だから
上の図は、マズローの欲求5段階説です。「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」という仮定に基づき、人間の欲求を5段階層で理論化したものです。
この5つの欲求を簡単に説明すると
- 生理的欲求:食事・睡眠・排泄・性的欲求などの基本的な欲求
- 安全の欲求:危険や恐怖を避け、安全・安心に暮らしたいという欲求
- 所属と愛の欲求;家族、友人、地域、会社や学校等、人と繋がりを求め、団体へ属したい欲求
- 承認の欲求;尊敬や高い評価を得たい欲求(↑ここまでが欠乏欲求↑)
- 自己実現の欲求:自分自身の為の成長や自分らしさを目指す欲求(成長欲求)
承認欲求は、他人から認められたい他者承認欲求と、自分で自分を認めたい自己承認欲求の2つに分かれます。
欠乏欲求は飢えなので、求める力が強いものです。
当塾では、欠乏欲求を満たそうとして努力するのではなく、自己実現欲求での前進をお勧めしています。
欠点を克服しようとして苦しくなる例
何か苦手な物がものがあったとします。
それを水泳とします。
就学前の園では、洗面器の水に顔を浸ける事さえ怖い状態でした。
小学校でのプールの授業が始まる前に、せめて潜れるようになりたいと、スイミングスクールに行く事にしました。そこのスクールの指導が合っていたのか、25mをクロールで泳げるようになりました。
出来ない事が出来た事が嬉しい上に、親も大喜びしてくれました。
そして水泳にのめり込み、ちょっとした大会でも成績を残せるようになりました。自分ぐらい水泳が得意な人はそうはいないだろうとさえ思い、それが自分の価値として思っていました。
ですが、世の中には「本物」がいます。その「本物」に出会えば心は揺らぎます。
物心付いた時から泳ぐのが大好きで、園の時からスイミングスクールで特訓をし、将来は国を代表する選手になる事も視野にいれた訓練をしているような人と、出会ってしまう事もあります。
その時に、自分の価値を脅かすその人を憎いと思いますし、消えて欲しい、潰れてしまえとさえ思います。
何故このような事になったのか
水泳が苦手だという欠乏欲求により、必死に努力する氣持ちが湧きました。
そして、同じジャンルに必死に努力する人には中々出会えないので、得意でないにもかかわらずある程度秀でてしまいました。
ですが、得意を必死に伸ばした人には、やはりかないません。
趣味として水泳を楽しんでいたのなら良かったのですが、自分の存在価値としてしまっていたので苦しむ事になってしまいました。
そして人は、欠乏欲求が満たされたと感じれば、そこに価値を見出してしまいがちです。
この人がもし短距離走が得意だったのなら、そちらを必死に伸ばせば「本物」になれたかもしれません。そこまでいかなくても、好きで楽しめる事なので、自分より成績が上の人を見ると「ワクワク」します。
なので、欠乏欲求に従ったためにこうなったとも言えます。
それが欠点ではない
自分が人の輪に入れないのは、人と打ち解けられないのは、自分が氣が利かないからだと思ったとします。
氣が利かないのが欠点というとらえ方です。
その人が、感覚型(受信型・エンパス)ではなく、行動型(送信型・逆エンパス)だった場合はどうでしょうか?
その人の良さは、人から氣を受信して氣を利かせる事ではなく、良い氣を発信する事で、皆を良い氣持ちでいさせる事です。
そのような人が実際に氣を利かせようとすると、ちぐはぐしてしまう事があります。なので氣を利かせようとする程に、人が離れてしまう場合さえもあります。
欠点ではない部分を欠点として克服しようとすれば、このような逆効果になります。
まとめ
欠点を克服しろと言い続けられ、氣力を奪われていませんか?
そのような人と離れられるならば、出来るだけ距離を起き、自分を取り戻してください。
そして人は、悪い影響を及ぼす人と居続けた場合、離れた後でも同じような人を無意識で探してしまう癖があります。
ゆっくり休んでストレスをはき、そのような物を求めない健全な氣の状態になるように心がけていってください。
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